映画・テレビ

2011年5月 7日 (土)

おひとり様映画館再開~八日目の蝉~

11ヶ月、サボっていたblogなるものを、
気まぐれにもふと、なんの覚悟もなく、
再開してみんとす。。。

----------
2ヶ月以上も映画館から遠ざかっていたのは、
なんとも意気地なしな理由からだった。

あの地震から1.5ヶ月。
とにかく怖かったのだ。
暗いところに閉じ込められるのが。

それでも、いつまでもそんなこと
言ってられないから、勇気を出して
例のごとくおひとり様でやってきたのは、『八日目の蟬』

それにしても、困ったのはこの花粉症だ。
しっかり泣くつもりでやってきたのに、
始まる前から、すでに鼻がぐじゅぐじゅである。

しかし、花粉症のせいにしていられたのも最初の
10分といったところか。

裁判シーンから始まる映画。
私から、一番かわいい時期の子供を奪った、と
責め立てる本当の母親に対して、裁判の最後に
希和子(永作)が一言言うのだ。

私に、子育ての機会をくれて、
ありがとうございました


と。

本を読んでから映画館に来ている私には、
もうそれだけで、お腹いっぱいである。

と言っても、これは本のように、最初に希和子目線で
語られるものではない。
裁判が終わると、出てくるのは、大人になった
薫、いや、恵理菜(井上)。

そう。映画では、大人になった恵理菜に導かれる様に、
あのときの希和子と薫が現れる。

本だと、どうしても最初に語られる、希和子の言葉に
同情してしまって、不倫容認、はたまた誘拐容認
みたいになってしまうが、最初から恵理菜と
希和子&薫を交互に出していくことで、ある意味
公平に、事態を判断していくことができる。

でもだから悩んでしまう。

結局これは、誰が悪かったんだろう。
被害者って誰なんだろう。
まして加害者って?

そんな私の疑問を抱えたまま、それでも
恵理菜が薫を探しに行く旅は進んでゆく。

そして「薫だった頃」を思い出せたとき、
その胸に去来したもの。

それは、加害者だった、誘拐犯だった「母」の、
どこまでも無償な愛
…だったよね、きっと。

不倫はダメ、誘拐はダメ、そんな感想を最後に
持った人も多いようだけど、個人的には、
それがどんな形であれ、幼い頃に愛されていた
記憶がしっかりしていれば、きっといいお母さんに
なれる、という希望を持てた映画だったと思う。

…と、2時間半で、さっきもらったばかりの出会い系の
ポケットティッシュをほぼ使い果たして顔も鼻も
ぐじゅぐじゅで映画館を出た私は、最近どうしても
考えてしまう思いを新たにする。

私、このままだと人生のどこかで希和子と似たような間違いを
犯しそうだ。ほんとに。

2010年6月 5日 (土)

告白

5月の終わりのとある火曜日。
私は朝からやきもきしていた。

お給料日に届いた試写会の当選はがき。
当然ありがたく使わせてもらうつもりでいたのに、
その日の朝は、なんだか怪しい雲行き。
(いや、天気がどうこうじゃなくて)

最近の政権みたいに、その日の予定は刻一刻と
変わっていき、そのたびに、「試写会だめかも」
「試写会いけるかも」とやきもきしていた午後5時。

「やっぱり国会は延期します」という
お知らせがやってきた。

政権が変わらないなら特に今日はもうここにいる
必要がない、と即判断し、1時間休、という斬新な
仕組みを使って会社を飛び出した。

向かった試写会は、松たか子主演「告白」

本屋大賞を受賞したという本作品は、新宿じゅうの
本屋で平積みになっていたが、あんだけすごい勢いで
平積みされると、こちらも萎えてしまうもので、だから
いつも予習重視の勤勉な私が、原作を読まずに
映画を鑑賞するという、珍しいパターンとなった。

雑然とした教室で、誰も聞いていないスピーチを、
松たか子がやっている。

最初は取り留めもない話が、だんだん核心に
迫ってきて、そして言うのだ。

「娘は事故で死んだのではありません。
このクラスの生徒に殺されたのです」

これが、松たか子の告白。

と、ここまで、私の話すあらすじを聞いた友達はみんな
声をそろえて聞く。

「え?なんでそんなこと分かったの?」

違う。みんな違うんだって。
そういう謎を解いていくサスペンスじゃないのだこれは。

この話は、ここから始まる、松たか子による
娘を殺した「犯人」たちへの復讐劇

あ、ちょっと違う。
正確には、この話をしているときには、もう1つ目の
復讐劇が封を切られた後であったわけだが、松たか子は、
「犯人」たちに、殺すよりももっとひどいかもしれない
「生き地獄」をじわじわと与えてゆくのだ。

そしてこの後は、「犯人」であるところの生徒や
それを取り巻く生徒、またはその家族などが、
それぞれの立場で順番に、時には折り重なるように
「告白」をしていくのだが、やっぱり圧巻は、
松たか子の「告白」である。

決して噛まず、決して泣かず、決して声を荒げない。
(いや、最後の最後で1回だけ荒げるけど)

なのに、彼女の告白には、なんていうか、戦慄
してしまうのだ。

「下妻物語」とか、「嫌われ松子の一生」とかの
監督の作品であるため、ごてごてこってり演出過多で
音楽過剰であるわけだが、そんなもの、ものともしない
ほどの、松たか子の朗読力(告白力?)。

2時間弱、次から次へと繰り広げられる絶え間ない
復習劇には、始終鳥肌立ちっぱなしで、その辺の
ホラー映画とかより全然怖い。

と、映画はとにかく、復讐の嵐を肌で感じる
エンターテインメントの世界である。

一方、映画の興奮が忘れられずに、ついに平積みから
1冊抜き取って購入してしまった文庫本のほうは、
本であるからして、スピード感というものとは無縁の
作品である。

ただ、話の構成は、映画と同じく、ト書きは一切ない、
オール「告白」で成り立っている。

映画なら、まだ、相手がしゃべらなくても、反応が見えるから、
まったく一人になることはないわけだが、本になると本当に
一人で勝手にしゃべっている状況である。

でも、反応が見えない分、その人の言い分をはっきり
「聞ける」というか、「読める」

そして、映画では完全に意味のわからなかった少年たちの
正体が、少しだけ見えてくるのだ。
(結局、幼い子供を最終的に殺してしまう、その心情は
どんなに考えてもよくわからないけども)

一番悪い、というか、一番狂ってるのは、犯人の
生徒たちであるが、その周りの一見「フツーの」生徒たちも、
周りの大人たちも、みんな少しづつ頭おかしい。

いや、おかしいっていうのは、周りから傍観しているから
分かるのであって、当事者になってみたら、私だって
きっと頭おかしくなるのだと思う。

最初は、少年法の穴をつつく目的のお話かなぁ、とは
思うけど、きっと、この話の本質は、そんな回りくどい
ことじゃなくて、もっと単純に「身近にある狂気」
描いた物語。

最近、ドラマでも映画でも「どーせこうなるんでしょ?」と
予想のついてしまう話の多い中、久しぶりに、結果の
わからない話に翻弄される楽しみを感じるお話であった。

告白 告白

販売元:楽天ブックス
楽天市場で詳細を確認する

2010年4月26日 (月)

クラシックに溺れながら考える。

もう半年以上も前のこと。
私は珍しく、先輩らしく、後輩ちゃんの進路の
相談に乗っていたのだが、さっそく回答に
詰まっていた。

普段全然相談に乗らないから、というそもそもの
問題もあるけども、何しろ問題が

「いつまで、がんばればよいんですかねぇ。」

という、深すぎるものだったからである。

周りが期待してくれるからがんばるけども、
がんばったらがんばったで、次の瞬間もっと
大きな期待を寄せられてしまい、キャパオーバーに
なりそうな自分をなんとか奮い立たせてがんばって
いるものの、このデフレスパイラル的なものを
いつまで続ければよいのかと。

そんなの、私だって毎日考えている。

この案件が一休みすればもうがんばんなくて
いいかというと、またどんどん次の案件はやって
来ちゃうし、責任だって日増しに大きくなって、
いったいどうすりゃいいんだ、と。

でも、そんな出口のない悩みに溺れているのは、
どうやら私たちアラサーばかりではないようだった。

レディースデーに、コンサートでも鑑賞するかのごとく、
お気楽に見に行ったのだめで、私はおんなじ悩みに
ぶち当たる。

「イツマデツヅケレバ イイデスカ?」

毎日毎日続けられるレッスン。
終わっても終わってもどんどん出される課題。
でもコンクールに出ることは許されなくて、
淡々と過ぎてゆく毎日。
帰ってゆく留学友達。
帰れない自分。

いつまで、課題と戦い続ければいいんだろう。

と、のだめも私たちと同じように悩んでいた。

ときどき、不思議に思うことがある。
こういう風に悩んでいるのは、往々にして女子ばかり。
男子というものは、本能的に職業戦士なのだろうか。
あんまり「いつまで仕事すりゃあいいんだ!」とか
ぐずぐず言ってる輩はいないように思われる。

しかしながら、続ける、ということは、もしかしたら
当たり前のことじゃないのかもしれない、と気付かされたのは
土曜日のこと。

内容も分からず、誘われるがままに見に行ったのは、
またもやクラシック音楽の映画。

フランス映画「オーケストラ!(原題:Le Concert)

渋谷で見ようと思ったらいっぱいで、銀座の映画館に
駆け込んだ私たち。
だいたい、やってる映画館が少なすぎやしないか、と
ぶーぶー文句を言っていると始まった映画は、簡単に
いうとこんな話だ。

主人公は、昔ロシア(旧ソビエト)の一流オーケストラの
“元“指揮者。
それは30年前のこと。
旧ソビエト
ブレジネフ政権下、ユダヤの人々は迫害を受け、
このオーケストラも、ユダヤ人を首にするよう、政府から
言い渡される。

しかし、それを受け入れず、オーケストラはコンサートを断行。
でも途中で、KGBがコンサートに乱入し、メイン曲の
チャイコフスキーのバイオリンコンチェルトは結局演奏
できないまま。

あれから30年。
指揮者から、コンサートホールの清掃員に格下げされた
男は、ある日、「フランスで演奏してくれませんか?」という
Faxを発見。
そのオーケストラになりすまし、フランスでコンサートを
開くことにする。

そう。これは、
「続けたかったのに続けられなかった」
人たちのお話なのだ。
30年の時を超えて、あのとき「続けられなかった」コンチェルトの
続きを奏でにゆく。
そこまでして、「続けたい」ものなんて、あるんだろうか。

そしてもう一つ、「続けられなかった」ものがある。

日曜日。
私は例によってチャリンコで新宿あたりを爆走していた。

もうすっかり愛車になったチャリンコで向かった先は
初台のオペラシティ。

今日はここで、チェロの先生が師事している先生の門下生の
勉強会なのだという。
複雑だけど、結局は先生の演奏を聴きに行くってことだ。

でも、先生が弾くのは実はチェロじゃない。

先生は、オケとかではチェロをやっているが、それは
本職ではない。
いや、稼げるお金はチェロのほうが断然多いかもしれないが、
本人が「本職」と思っているものはチェロではない。

「本職」は、ヴィオラ・ダ・ガンバという古楽器だ。

大きさはほぼチェロと一緒ではあるが、弦の数は6本もしくは
7本(2種類あるらしい)で、床にぶっさすエンドピンが付いておらず、
だからプレーヤーは足で楽器をはさむようにして持つ。

チェロっていうのは、もともとは農耕民族が弾く楽器だった
という。

一方、ヴィオラ・ダ・ガンバというのは、貴族の楽器。
宮廷の中で開かれる舞踏会などで用いられていたのだそうな。

一番この楽器がはやったのは、ルイ14世(太陽王)とか、
マリー・アントワネットの時代。

でも、そんなとき起こった、フランス革命

怒った「農耕民族」が「宮廷」に殴り込みをかけ、
マリー・アントワネットがギロチンにかけられると同時に、
宮廷のシンボル的存在のヴィオラ・ダ・ガンバも、
「なんだよこの楽器!マジムカつく!」と、「農耕民族」に
ぼっこぼこにされ、ほぼ絶滅してしまったのだという。

それから1世紀以上の月日がたって起こった古楽復興
運動により、この楽器は細々ではあるが復活し、今、
先生たちが「弾き継いで」いっている、というわけだ。

これも
「続けたかったのに続けられなかった」
楽器である。

芸術というものは、本来あってはならないのだが、
時代とか、政治とか、そういうものに標的にされやすいのも
また事実。

だから、意外と「続けられない」ものも数多くあるのだろう。
逆に、毎日淡々と続けられているものなんて、思いのほか
少ないのかもしれない。

だからきっと。

だからきっと、自分の好む、好まざるにかかわらず、
「続ける」ってことは、大事なこと。
いつまでやんなきゃいけないの~、って思っちゃうかも
しれないけど、急に無理やりそれをやめさせられちゃう
不幸に比べたらそんな不満、きっと大したことない。

だから、えっと、その、要は・・・

明日も、引き続き、元気に働こうぜ!ってことだ。
3日働き「続け」れば、楽しい楽しいゴールデンウィークだし!

2010年4月 3日 (土)

ソラニン

「年度末なんでぇ、夕方の懇親会はいけませーん」
と、その日、朝から言い訳を言い連ね、上司が
出掛けるのを見送り、業務時間が終わった途端、
私は外に飛び出した。

年度末が忙しいのは本当なのだが、
その日は、そんな年度末と(どうせつまんねぇ)懇親会を
おしてでも、どうしても行かなきゃいけないイベントが
あった。

あたったのだ。試写会が。
「ソラニン」の試写会が。

あおいちゃーん、今すぐに会いに行くからねー!
と、東京メトロじゃなくてJRで向かい、友達と
合流した私は、友達をせかして渋谷を走る。
(遅れたの私なのに)

そうして駆け込んだ夜7時。
さらにそこから30分のトークショーを経て、
「ソラニン」は始まった。

2年目のOL、芽衣子は、学生の時から
付き合っている、フリーターの種田と同棲中。
種田は学生の時からやっていたバンドを
あきらめきれず、
芽衣子も誰にでもできる
仕事を淡々とやり続ける毎日に飽き飽きで、
ある日勢いで会社を辞めてしまう。

一方種田は、再び本格的にバンドをやろうと
思い、「ソラニン」を作ってレコード会社に
持ち込む。

しかし、そんな中種田は突然……

っていう、まぁありがちなストーリーの
青春映画なのだが、逆にいえば、
ありがちだからよいのかもしれない。

学生時代の、土手、サークル、ぼろい部屋。
バーベキューに花火に大きな青空。

逆に、大人になってからの、淡々とした毎日と
曇り空。

ディティールは多少違っても、若い頃なんて、
たぶんみんなこんな感じだ。

だから、見たことないはずの景色なのに、
自分がそこにいたような気がする。

自分の話じゃないのに、どこかしら自分の話のような
気がしてくる。
(いや、あおいちゃんみたいにかわいくないことは
百も承知で)

だから、何にもないようなシーンが急ににじんで
見えてくるのだ。

そしてやってくるクライマックス、あおいちゃんの
ライブシーン。

どうやらあおいちゃんは、自分では歌が不得手だと
思ってるんだそうだが、あおいちゃんが不得手だったら、
「歌しか得意なものがない」とか言っちゃってるうちの
妹はいったいどうしたらいいんだ。

あおいちゃんが歌う歌、それが「ソラニン」で、
もとはアジカンなのであるが、ソラニンっていうのは、
ジャガイモが芽を出すときに必要な毒素のことで、
だから、つまり、種から芽が出るってことで、
ってことはとどのつまり、種田から芽衣子が卒業
するための歌である。
(と、私は理解している)

ここに来るまでの約2時間で、あまりにも
どこかで見たことあるようなシーンのオンパレードに、
完全に思い出に浸っていた私。

そんな私に、最後の最後で、あおいちゃんはどすんと
重い一言を投げつけた。

さよなら。それもいいさ。
どこかで元気にやれよ。
さよなら。僕もどーにかやるさ。
そうするよ。

いつまでも浸ってないでさよならしろよ、と
あおいちゃんに男らしく送り出される私。

さよならなんてひどいなぁ、とわんわん泣いて、
すっきりした私たちは、映画館を出た途端
けろっとラーメン屋に向かう。

ラーメン食べながらふと擡げる、明日への
不安。
懇親会断ったのに、全然残業してないのが
ばれちゃってこっぴどくしかられたらどうしよう。

映画ですっかり学生の気持ちを思い出した
私は、のんきに麺をすすりながら、
「あおいちゃんみたいに辞表たたきつけてみる?」

それもいいさー

ふと聞こえたような気がするあおいちゃんの声。

んーー、とスープを一口飲んでから、大人の私は
ふっと笑って小さくつぶやいた。

さすがにそれはないでしょ。と。
いつまでも、現実に目をそむけてはいられないのだよ、
大人というものは。

2010年2月21日 (日)

思い出と友愛と国家権力と

その日、お給料日なのをいいことに、外出先から
きっちり定時で帰宅した私は、相変わらず、ドラクエ
片手にツイッター読みつつ、かなり久しぶりにロードショーを
鑑賞していた。

ロードショーでは、最近とんと見てなかったナウシカ
やっており、私は、小さいときの記憶を呼び起こしながら
ナウシカを復習。

でも、小さい頃、私はナウシカが大嫌いだった

理由は忘れたが、私が小学生のころ、母はママ友から
毎週1回くらい、近所のあの子を預かっていた。

私より4つ年下の女の子。

少し(いや、かなり)ぽっちゃりしていて、やたらとおとなしく、
手間はかからないのだが、一つだけいやなのは、その子が
毎週持ってくるとあるビデオ。

それが、ナウシカであったのだ。

一人っ子だから、一人でビデオ見るのが習慣になっていたの
だろう。

その子は家に来ても、うちらと一緒にわーきゃー遊ぶわけでもなく、
だいたいは姉妹喧嘩を繰り広げているうちらの前を素通りし、
だまーって茶の間に座り、だまーってテレビつけて、
だまーってビデオをデッキにいれ、一人黙々と、ナウシカを
鑑賞するのだ。

それが、何しろ幼い(といっても小学校低学年の)私には
気持ち悪くてならなかった。

虫が大暴走し、腐ったロボット的なもの
真っ赤な火の海を闊歩して。。。

なんで、まだ保育園に通い始めたばかりのこのガキが、
こんなおぞましいものを食い入るように見ているのか、
私はそのころ全然分らなかった。

しかし。
今思うと、小さい頃の私は、なんとまぁ浅はかであったのだろうと
思う。
気持ち悪さにばかり目を取られ、この話が何たるかをまったく
理解しようとはしていなかった。

そんな私を戒めるように、最後にばばがいう。
「なんといういたわりと友愛じゃ!」

そう、これは、オームとナウシカ、という、本来なら
一緒には生きていけない敵であるはずの者たちの
「いたわりと友愛」の物語。

あのぽっちゃりの子は、あの年で、もしかしたら
「いたわりと友愛」が何たるかを知っていたのかもしれない、と、
私は昔の思い出をほじくり返し、今更ながら、初めて彼女を
尊敬したのだった。

そんな、次の日。

どんなに引っ越し準備が忙しくても、結局2週間に1回ペースで
観てしまう映画に、またしても私は出掛けた。

その日の獲物は、伊坂幸太郎「ゴールデンスランバー」

何でもない普通の運送会社の配達員、青柳雅春は、
ある日突然、首相がパレード中に爆弾で殺される事件の
犯人にされてしまう。

事態がまったく把握できないまま、とにかく仙台中を逃げ回る
雅春。

と、ここまでだと、この話は完全に、J.F.ケネディ暗殺の
あの話
と丸被ってしまう。

でも、この話は、「本当の犯人はだれか」とか、
「誰の陰謀だ」とか、そういう国家権力の裏側を明らかに
しようとしてるわけじゃない。

フォーカスされるのは、逃げる雅春を信じて、何気に
協力する、大学時代の友達とか、昔の知り合いとか、
知り合ったばかりの一般市民とか。

「お前が犯人であるわけがない」と彼を信じ、1%も
疑うことなく、国家権力なんてものともせずに、手を貸す
彼らの姿は、まさしくナウシカと一緒。
「いたわりと友愛」の塊であった。

でも、さらに良いのは、それを、「いかにも」という感じで
表現しないところ。
大げさに涙流すでもなく、不幸を嘆くわけでもなく、
まるで、テストの予想問題のノート貸すくらいの感覚なのが、
なんとも21世紀らしい。

そして、そんなに軽々しい感じの中に、ふと挿入される、
大学の時の思い出。
(それがヒントになっていることもある)

みんないつも一緒だった大学時代と、犯人扱いされて、
どこにも行けないまま逃げ回っている今と。

「昔は、帰るところがあったのに」とか
言われた途端、私は逃げ回っているわけでもなんでも
ないのに、毎度のことながら号泣。
こ、こんな軽々しいタッチなのに、こういうところだけ
ちゃんとしやがってー、と悔しさ全開で。

まぁ一つ問題点を挙げるとすれば、主人公の青柳雅春は
30歳、という設定らしいのだが、どう頑張っても、みんな35歳
くらいの設定に見えてしまうところが、アラサーとしては
許されざるところではあるが。
(だいたい、うちらが大学の時にビートルズを好んで聞いていた
学生がいったいどれくらいいただろう)

とにもかくにも、最初は笑っていたのが、最後おお泣きして
しまい、どんなに直しても化粧が思い通りにいかず、その日の
合コンが最悪の出来であったことは、言うまでもない。

私に、帰るところが出来るのは、どうやらまだまだ先のこと、
らしい。

2010年2月 6日 (土)

おひとり様で妄想する、愛とか、夢とか。

結局、1月は映画を1つしか見れなかった。

急に引っ越ししようとか思って家を探し回っていたのが
いけないんだが、それにしてもストレスがたまる。
お酒が切れるとぶるぶるする人がいると聞くが、私の
場合は、映画が切れるとイライラする

家が決まったからには、家具買ったりしないといけないのだろうが、
とにかく映画が切れてしまっては話にならないので、チェロの
レッスンのあとに、久しぶりにおひとり様映画館

みる映画はもちろん、年末から予習していた、
サヨナライツカ

日本でお見合い結婚を決めてからタイに赴任してきた豊。
しかし、自分の婚約祝い@タイで、豊はやたらセクシーさが
際立つ、沓子に出会ってしまう。
沓子は豊に一目ぼれ。
婚約者の光子などお構いなしに豊のところに押しかけて、
あっという間に浮気の関係に。
でも、光子との結婚はキャンセルされることもなく月日は
流れ、気づけば光子がタイに引っ越してくる日が迫っていて―

っていう話で、原作 辻仁成、主役の沓子はその妻 
中山美穂(なんとまぁ・・・)。
監督は韓国のお方。

で、もう一人の主役の豊は、というと、西島秀俊なのだが、
最初は私がこの配役がいまいち腑に落ちなかったのだった。

しかーし!
映画見始めてすぐに分かった。

西島君は、いわゆるモムチャンなのだった。

モムチャン(韓)=立派なお体。
っていう意味で、韓流スターの本流である。

そいでもって、この映画はR15指定だけあって、前半の
シーンのほとんどは、上半身裸。
なんとも筋肉質な上半身を惜しげもなく見せちゃって
いるのだった。

さらには顔も、じーっとみるとどことなく韓流スターっぽくて、
監督が韓国の方であれば、まぁ抜擢しちゃう気持ちもよく
分かるのだった。
主婦メロメロだなこりゃ。

また、小説では、豊から見た沓子ばかりが際立っているわけだが、
映画になると、どちらかというと、豊の人生に焦点が当たっている
ように見える。

小説じゃ、前半は豊が沓子に振り回されてばっかりにしか
見えなかったけど、実はどういう風に仕事していて、どんな
夢があって、何を考えているのか、そういうのが映画だと
よくわかる。

そんな夢が、沓子と別れて大人になって(出世して?)
行くとともに、かなえられるはずがどんどん遠くなってしまう
こととか。

最初は、誰だって、夢描いて会社に入る。
そして、それを叶えようとして、そのために仕事頑張る。
そのうちに、頑張るだけじゃ夢は叶わないことに気づいて
偉くなろうと努力する。
だけど、その道のどこかで気づくのだ。
あれ?偉くなるために仕事してるんだっけ?それとも
何かやりたいことがあったんだっけ?

(まれに気付かない人もいるかもしれないが、そいつは
頭の線がどっか切れてしまったんだ、きっと)

CMで散々やっている、
「君は、愛したことを思い出す?それとも愛されたことを
思い出す?」

という、豊の「愛」についての問い。そして、
「君の夢に惹かれたの。だけど、夢の叶え方は一つじゃない。」
という沓子の「夢」についての考察。

この2つが重くのしかかってくる、いい映画だった。

あ、ひとつ注意するとすれば、CMで、東京、バンコク、
ニューヨーク、とか言ってるけど、ニューヨークのシーンは
1秒もございませんので、騙されぬよう。

あと、男女2人で行くと、「愛してる!」とかふわふわした
気分になって軽々しくなってしまう気がするので、ストイックに
おひとり様で見ることをお勧めします

まぁとにもかくにも、空いた映画館で号泣できて、なんとも
すっきりした、木枯らしビュービューの夜のことであった。

2010年1月10日 (日)

チェロと映画始め

我ながら、ちょっとうまくなったんじゃないかと思う。

いや、何ができるようになったわけじゃないんだけども、
若干こなれてきた感じ。

あんだけがっちがちになっていた左手なのに、
気付けばナチュラルに、力を入れなくても弦を
抑えられるようになってきたし、今までみたいに
知らないうちに重力に負けてピッチが激上がり、
なんてこともなくなってきた。

若干ずれても、即修正できるようになってきたし、
左手に気を取られまくって右手の弓さばきが
大変なことになることも少なくなってきた。

指番号をいちいち全部振らなくてもある程度は
弾けるようになってきたし、緩やかながらも確実に
成長している。。。

と思いつつ練習曲を終わらせると、次は
課題曲の「エーデルワイス」。

3回目の今日こそは、間違えずに弾くぞ。
と思いきや、調子に乗った私は始まって
3つ目の音で早速引っかかる。

「エーデルワーイス♪」の「わ~いす♪」
どうしてもかすれてしまう。

駆け寄ってくる先生。

いや、私もなんとなく前からわかってはいた。
この「わ~いす♪」は小指まで全部抑えないと
鳴らない、高いレ(D)の音であり、しかも一番高くて
抵抗の少ない4番弦であることも重なって、どうしても
この音だけがかすれてしまうのだ。

それでも、私のフォームを見て、先生が
首をかしげる。

指はちゃんと曲がってるし、弾く位置も変なとこじゃ
ないし、なんでかねぇ。

うーん、まだ小指にうまいこと力が入って
ないんですかねぇ。
と、手をチェロから離して手のひらを見つめると、
小指には弦の筋。

こんなに抑えてどうして鳴らないのだ。
高い「レ」。

なんて、最後消化不良になりながら、向かった先は、
2010年になっても映画館。

でも、今日観に行くのは映画じゃないもん、と
私は思っていた。

今日は、1812年のコンサートに行くんだもん♪

チャイコの1812年

ナポレオンがロシアに攻め込んでいって、
冬将軍に負けて失敗した、あの時のことを、
ロシア側の目線で描いたこの曲は、典型的な、
超大げさロシア音楽

上でジャカジャカジャカジャカと歓喜のテーマが
鳴り響くその下を支えるのは、低音が奏でる
ロシア国歌

そして、その2つが重なってただでさえ大変な
ことになっているさなかに、ガンガンガンガン
鳴り渡るチャイムと、ドカドカと鳴り響く大砲。
(演奏会だとバスドラだけど、自衛隊とかが演奏すると
リアルに大砲を使ったりする)

私だけでなく、その顛末を知っている楽器屋さんたちと
しては、もうCM観てるだけでいてもたってもいられない
はずなのだ。

それを、映画の中でロンドンフィルが音被せるって
いうのだから、そんなすばらしいことがあるだろうか。

なんて、映画観る前から高まる期待は収まらない。

うきうきうかうかと、映画を見始め、あまりの
ファンタジーっぷりに、「ドラマより子供向けになってる」と
若干ひきつつ、ひたすらに1812年が始まるのを
待ちわびる。

と、千秋のうちで夕飯を食べるダメオーボエ奏者の
娘、カトリーヌちゃんが千秋に言い放った。

「でもね、パパは、本当に毎日
一生懸命練習してるんだよ!」

あ。

うきうきうかうかしていた私は、そこで急に
冷水を浴びせられたような気分になる。

私も、もしかして練習しないといけないんじゃないかと。

仕事が大変で練習してる暇なんて、って言いながら、
結局週に1回のチェロレッスンの前後にしか練習しなかったり
して、それじゃあ5か月たっても小指がうまいこと抑えられないのも
無理はない。

それに比べてこのオケの団員たちは、少ない時間を割いて、
ぶつぶつと文句を言いながらも、一生懸命練習しており、
だから、エンディングの1812年は、(ロンドンフィルの音では
あるけれども)本当に素晴らしかった。
(ってか映画でクラシックをフルで流してくれるだなんて素晴らしすぎる)

吹奏楽部で演奏したことのある私は、なんだか途中から
一緒に演奏してるような気分になってしまい、指が勝手に
動き始め、さらには、あまりにも音楽を堪能しすぎてしまって、
演奏が終わってスタンディングオベーションのシーンで、
一瞬、私も一緒に立ちあがってしまいそうになる始末。

あ、ちがう。これはコンサートじゃなくて映画、映画だ、と
なんとか自分に言い聞かせて自制する。

なんだか後編は、のだめの千秋の恋のエンディングに
向けた「映画」になりそうだけども、前編はかなり上質な
「コンサート」であった。
絶対音響のいい映画館で見たほうがよい。
ってかすばらしい音響で聞けるなら、あと2、3回
お金払って映画館に足運んでもいいと思わせるそんな
演奏だった。

あーあ、やっぱりいいなぁ、オーケストラ。
私も、オーケストラにはまだまだだけど、今年はもう少し
ちゃんと練習しよう。
楽しい「音楽の時間」に再び出会うために。

 コンピレーション/のだめカンタービレ 最終楽章: のだめカンタービレ Etc コンピレーション/のだめカンタービレ 最終楽章: のだめカンタービレ Etc
販売元:HMVジャパン
HMVジャパンで詳細を確認する

2009年12月29日 (火)

ばあちゃんと、あと3年弱

さて、今年の映画納め

といっても、その前日はお昼からバスケやって
チェロ行って忘年会出てカラオケしてラーメン食べて、
気づいたら日付が変わる
、という、学生でもあり得ない
ような怒涛の1日だったので、「映画納め」とかテンション
高そうなこと言っちゃっても体がそれに追いつかない
ありさまで、眠気を懸命にこらえながら、筋肉痛の
足腰をひきづって、私は映画館に向かった。

計何本映画観たかさっぱりおぼえてないけども、
20本以上は観たと思われる2009年の映画納めは、
あと3年弱ののちに本当に起こるかもしれないパニック
映画、「2012」と相成った。

マヤの予言では、2012年12月22日で世界が滅びる、と
言われており、このストーリーは「もしそれが本当に
起こったら」っていう…まぁしごく簡単なものだ。

だってハリウッドだもん。

そういえば、いろいろ観てるけど、ハリウッド系パニック
映画はクローバーフィールド以来だった気がするなぁ。

とか感慨に浸ってる暇なんてないのだ。

映画が始まって20分もすると、大地震がやってきて、
地表が大きく割れて隆起し、カリフォルニアの高層ビルが
上からガンガン崩れてきて。。。

その中を、主人公家族の乗った車が空港に向かって
爆走する。

言っとくけど、おそらくお金が足りなかったらしく、
この映画は3Dじゃない。

だけども、その車が爆走するシーンの視点は
上から、でも、下から、でもなく、車を運転してる
人の視点そのもの
からになっていて、だからもう、
その様子はゲーセンで私が運転する車壁に
激突したりフェンスを飛び越えちゃったり時には
逆走しちゃったり―
を500倍リアルにしたような
そんな感じなのである。
(私がへたくそすぎるだけ)

自分が運転してるときはそれでも、アクセル全開にして
(決して、ブレーキは踏まない)ハンドル掴んで必死に
行く先に目を凝らすのだが、これは映画であって私が
運転してるわけじゃないから、私は両手握って親指
かくしたり(救急車通った時みたいに)、時には手で顔を
覆ってあまりにもリアルなところを見ないようにしたり…

あ、違う。

正しくは、ちゃんと見ていた

顔を隠してたって、指の隙間から、肝心なところは
ちゃんと見ていた。

それはまるで、スポーツ観戦してるときのばあちゃん
ちょうど同じ感じで。

うちの母の母であるところの、ばあちゃんは、
古くはプロレス、今じゃ相撲、と、早く言えば
格闘系のスポーツが好きらしい。

たまにうちに遊び来たって、どこに遊びに出るわけでもなく、
相撲の始まる時間になれば、しっかりとテレビの前に座って、
「がんばれー。がんばれー。」と聞こえるわけでもないのに、
両手握って騒がしく応援を始めるのだ。

しかしながら、試合が盛り上がってきて、もみ合いの
様相を呈してくると、ばあちゃんの応援はどっちかと
いうと「悲鳴」に変わる。

しかもその悲鳴が普通じゃない。

「あー、もうらしいもうらしい、あーみてらんねやー、
もうらしいー」

と、もうらしい連発である。

もうらしいっていうのは田舎の方言で、
「かわいそう」っていう意味だが、もうらしいまで
いくと、かわいそう、に少しだけ、「せつない」という
意味を含む気がする。

本当にグロテスクなものとか残酷なものが
嫌いな母は、そんなばあちゃんを見ながら
いつも「もうらしいなら見なきゃいい」
冷たくあしらう。

でも、もうらしいって言いながら、見てらんないって
言いながら、ばあちゃんはしっかりと見ているのだ。

横から見ればしっかりわかるくらい、指の間から
目を見開いて、ちゃんと試合の結果をみてるんだ。

さて、そんなばあちゃんの記憶に気を取られている
暇もなく、映画の舞台は陸から次は空へ。

飛行機が空に浮きあがった直後、飛行機のすぐ後ろの
地面が崩れ、その下にはマグマ。

そんなマグマをみて、ぎゃんぎゃん泣き出す子供の
泣き顔がかわいらしすぎて「もうらしい」

もうらしい、もうらしい、と心の中でつぶやいている
うちに、ゲーセンから舞台は海、というか宇宙戦艦に
移る。
(宇宙にはいかないけどね。だってたった3年後の話だから)

そこでも、船に乗ろうと思って乗り出しすぎて落っこちて
しまう人やら、水が流入して溺れてしまう人やら、足が
機械に引っかかってしまう人やら。

もう、「もうらしい」シーンのオンパレードで、そのたんびに
私の頭の中にはばあちゃんの「もうらしい」が響いて
くるのだ。

そういえば、この映画、完全なるフィクションだって言っても
本当に起きてしまうのであれば、あと3年弱。

未来に何が起こるかなんて、全然わからないのだ。

まだまだ元気なばあちゃんは、2012年になっても、
相撲見ながら「もうらしい、もうらしい」とつぶやいて
いるだろうか。

その「もうらしい」が、世界滅亡の「もうらしい」じゃなくて、
あくまでも相撲であってほしいと、映画の最後の朝日を
見ながら、私は思った。

さて来年の映画始めは、何にしようかな。

2009年12月19日 (土)

映画三昧の年末

ついこの間までは、2週間に1回だった。

それがいつの間にやら、週に1回ペースに
なってしまった。

言っておくが、決して、決して暇なわけじゃない。
2週間に1回は休日出勤してるし、仕事以外だって
結構忙しい。
(あ、それは嘘かも)

なんだろう、家にいるとさみしくなるからなのか、
それともストレスがたまっているからなのか。

なにはともあれ、3週間で3本の映画、振り返らないと
もったいないので書きとめるとするか。

①笑う警官
それは、無理やり年休を消化させられ…あ、違った、
取得させていただいた月曜日。

年休取ったって結局やることのない私は、
英会話行って、そのまま映画館に直行。

…そういえば、最近英会話で、
「このあとどうするの?」って聞かれると。
「Movie」しか言ってないような気が。。。

まぁそれはともかく、ストーリーとしては、

ある夜、一人の婦人警官が殺されて、
昔彼女と付き合っていた警官が容疑者として
あげられる。
しかし、その警官が同僚に「俺じゃない!」と
連絡したのをきっかけに、同僚たちが事件について
調べ始めると、実はその事件は北海道警の
汚職事件と深くかかわっていて。。。

何しろ、中づりのキャッチコピーがカッコよかった。
「この国は警察が、正義を指名手配する」
だって。
しびれる、ビリビリ来るよ!
(古い)

っていう、角川文庫が総力を挙げてお送りする、
警察の闇を大きくえぐる映画なのである。
(その割に客が入っていないのは、としまえんだから、
だよな)

往年の2時間ドラマ系の男たちが集う中、やっぱり
目立つのは紅一点の松雪泰子である。
かっこいい、かっこいいよとにかく!

そして、音楽がシブい!登場人物たちがもともと
ビックバンドだったという設定もあって、全体的に
ジャズな感じが漂っていて、ちょっと古いスタイルと
言えないこともないが、なんともシブい。

ストーリー的には警察vs警察組織ってことで、人間関係が
とにかく入り組んでいて難しくて、誰が白で誰が黒なのか、
終わるまで、というか終わってもまだわからないままなのだが、
とにかく大人の見るシブい映画に仕上がっていた。

それでも、途中なげぇなぁと中だるみしちゃったのは、
難しすぎたからか、それとも私がまだそこまで大人になれて
いないからなのか。

②戦場でワルツを
その週の日曜日。

半分趣味、半分仕事で出かけた国際フォーラムのイベントは、
仕事のジャンルからいけばまったく信じられないことだが、
朝11時に着いたのに長蛇の列で入場制限。
(しかも家族連ればかり)

当日券はもうこの日は売りだす様子もなかったし、
夜はバスケに行くからこのタイミングで家に帰る
わけにもいかないし・・・としばらく逡巡してから私は、
仕方なくお昼近くの銀座に乗り出した。

さて、どうするかなーと思い、携帯を開いたときに
気付いた。

銀座といえば「シネスイッチ銀座」だと。

としまえんは、土地の割にスクリーンが9個もあるという
贅沢な作りなので、だいたいの映画はそこで見れてしまうが、
見れないものも結構ある。

それが、単館映画なのだ。

そして、シネスイッチでやっていたのが、アカデミー
外国語映画賞
をとった、このイスラエル映画である。

アカデミー賞だからだろうか、それとも銀座だからだろうか。
先日の笑う警官よりよほど人数が多く、ほぼ満席の中、
映画は始まった。

ストーリーは、

今は映画監督をやっているアリは、ある夜、戦友の
一人と酒を飲み交わしていた。

そして、その友達の「最近戦争の時の悪夢にうなされる」
という話を聞いているうちに、アリはふと思い出す、
というか気付く。

自分にはその戦争の記憶がないことに。

そして、アリは記憶を取り戻すために、昔の
戦友のところを回って、当時の話を聞いていく、

という、アニメーション・ドキュメンタリー映画である。

戦争の映画とはいえ、アニメーションだから、
そんなにグロテスクなシーンはないだろうと思っていたら
大間違い。

アニメだから、実写ではとてもできないような、
グロテスクなところを描けてしまうのだった。

ドキュメンタリーだから、戦争の原因とかそういう
説明はあまりなく、パレスチナ問題、という大事な現代史を
ほぼ素通りしてしまう、ずさんな日本の歴史教育で
育ってきた国民にはかなり難しいところもあるけれど、
結局、戦争なんて、事情も分からない若者がてきとーに
戦地に行かされて、よく使い方も教わらないまま武器を
持たされて、テンションあがりまくって人を殺しまくる、という
どの戦争にも共通したテーマがよく描かれていたのでは
なかろうか。

そして、最後にアニメーションは実話とつながっていく
わけだが、それは実際に見ないとわからないであろう。

重苦しくて残酷だけど、きっと見ないといけない映画、
なんだろう、と思う。

③カールじいさんの空飛ぶ家
そいでもって次の日曜日。

またもやとしまえんじゃない映画館に、私は遠出
していた。

それは六本木の映画館。

いや別に、テレ朝の周りのイルミネーションを見る
つもりだったわけじゃなく、六本木の映画館では、
カールじいさんが3Dでやってるっていう話を聞いた
からだ。

でも、3Dって、すんごい昔に見たことなかったっけ?

かたっぽ赤でかたっぽ青の、紙で作ったみたいな
ちゃちい眼鏡をつけると、怪獣が襲いかかってきて、
そりゃあもうとって食われるんじゃないかと、ガキの頃の
私は思ったものだ。

あれからとんと、3Dというものはこの世から姿を消し、
そして最近、再び世界に再登場した、ように私には
見えるのだが、実はずーっと3Dはこの世に存在してたの
だろうか。

さて、そんな3Dを見るために、六本木の映画館は
外国のガキどもであふれていた。
日本のガキがいないのは、おそらく字幕版だからだろう。

スクリーンの入り口では、あの頃と同じく、係員が
眼鏡を渡してくるわけだが、その眼鏡は時間がたった
分だけ重く、どっしりとしたものになっており、こんなの
2時間もつけてたら鼻が低くなってしまうんじゃないかと
思われた。

また、眼鏡かけた途端にとって食われるんじゃなかろうかと、
3Dが始まるまでは眼鏡をかけることもなく、予告編を見て、
いよいよ眼鏡をかける。

と。

思いのほか、3Dは3Dじゃなかった。

どっちかというと、前に出てくるんじゃなくて、奥が広がる
感じ??
立体感は出るけど、飛び出てくるようなもんじゃなく、
やさしく私の周りを包み込むようなイメージである。
(わかりにくいな)

よかったぁ。
とって食われなくて。

それにしても、素晴らしいのは3Dだけじゃない。
カールじいさんは、楽しくておもしろくて、そして少しせつない。
とくに、序盤の「せつない」が若者には胸キュンである。

意外にも「パラダイスの滝」にあっという間についてしまう
という肩すかしはあったものの、そこからの展開もまた
面白く、眼鏡のせいでかなり目は疲れてしまったが、
あっという間の2時間であった。

これで、「眼鏡なくてもいい3D」ができれば完璧だな。

というわけで映画三昧の3週間。

今週は映画お休みだけども、来週はまた、今年の
「映画おさめ」があるはずで、その映画以外にも
予告編やらCMやらを見ているとどんどん見たい映画は
たまっていってしまう一方で、来年も映画中毒は
終わらないんだろうなぁ。

2009年11月15日 (日)

過去と未来とゼロの焦点

その日、チェロ教室のあと、先生が不思議な
楽器
を弾いていたので、みんなでしばらく
鑑賞し、なんだか貴族のような気分に浸ったところで、
向かう先は、結局映画館。

だってあらかじめ予習しておいた松本清張の
ゼロの焦点が今日初日なんだから、行かない訳に
いかないじゃないか。

そういえば、この前太宰も生誕100周年とか言っていて、
このゼロの焦点も「松本清張100周年記念」とか
言っているから、つまるところ、太宰と松本清張は
同い年だってことだ。

そして、そんな同い年2名の作品の両方に、
広末涼子が出ているという、この摩訶不思議。
こういうのが運命っていうんだろうか。

なんて思いながら、始まった映画を見始めて20分。
私は気づいた。

この映画の主人公は、実は広末じゃない。
中谷美紀だと。

小説では、広末演じる禎子ばかりに視点が置かれていた、
「ゼロの焦点」であるが、映画では、広末だけでなく、
中谷美紀、木村多江演じる他の2名の女性にも、
それぞれ「焦点」をあてており、3人3様の、戦後の女の
生き様が描かれている。

その中でも、中谷美紀の存在感がすごい。

斜めに黒いハットをかぶり、ストライプのワイドパンツを
スタイリッシュに着こなして、信じられないくらい色白で。

もう出てきたとたん、その時代の人とは思えないくらい、
なにしろ「カッコイイ」のである。
(途中エナメルみたいな服着てるし)

でもそんな「カッコイイ」中谷美紀の暗い過去を、旦那で
あるところの料理の鉄人の人は結婚生活を3年も送っていながら、
何にも知らないのだ。

そしてその「何にも知らない」のは、新婚たった
1週間で旦那が行方不明になってしまった広末も一緒。
前職が何であったかも、結婚する前どんな生活を送って
いたのかも、気づいたら何にも知らない。

そう。結局、愛していても、その人の
過去がすべて分かるなんてことはない

っていうのが、この映画の大きなテーマ。

でも。

過去なんて実は知らなかったとしても、
広末だってたった1週間しか一緒にいなかった旦那を愛して
いたし、旦那もきっと広末を愛していたし、料理の鉄人の人も、
中谷美紀のことを、分かりにくいけども、愛していた。
過去なんて見ずに、未来に向けて歩いていこうとしていた。
それがきっと、「戦後の日本」の強さなのだと思う。
過去は、決して消えるわけではなく、最終的に、それが3人の
女を苦しめるのだとしても。

監督が犬童一心であったからして、予想通り、
「そんなところ写さなくても…」と思うような、グロテスクな
シーンはたくさんあったけども、それを超越するだけの、
女3人の深い深い、重い重い、分厚いドラマであった。

そうして、日本海の海原を見ながら感慨に浸っている私の
耳に流れてきたのは、エンディングテーマの中島みゆき

分厚い。歌声が分厚い。

ああ、女というものは、かくも力強いものなのか。
と、私は最後に中島みゆきの雄たけびを聞きながら
思うのであった。

ゼロの焦点改版 ゼロの焦点改版

販売元:楽天ブックス
楽天市場で詳細を確認する

より以前の記事一覧

無料ブログはココログ

ribbon

twitter

Booklog

最近のトラックバック

2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30